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教育基本法「改正」の行き着く先
「できん者はできんままでけっこう。落ちこぼれの底辺をあげることばかりに注いできた労力を、これからはできる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。」
こう語ったのは教育課程審議会の前会長だった三浦朱門氏です。そしてこの驚きの発言を冷静に聞き取り、世に知らせることに成功したのが斉藤貴男氏。最近彼の著書『教育改革と新自由主義』をみました。
大多数の子は物言わぬ企業の奴隷として教育
この本によると、三浦氏の考えるエリートは百人に一人。ここに教育の光を重点的に当てるのだそうです。
さらに三浦氏は続けます。「限りなくできない非才、無才にはせめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんです」と。
すごいでしょ、この感覚。こういう発言を聞くとおもいませんか?
「教育改革」というものが狙っているのは、大多数の子どもたちに施される“エリートにかしづく”教育ではないか、と。
「企業戦士」という言葉がありますが、この教育観から察する近未来の労働者は恐らく過重労働の上に低賃金、それでも文句を言わない「企業奴隷」となっていることでしょう。
「新」という頭文字がつくも江戸時代より古い
教育基本法はすべての国民に等しく教育を受ける権利を与えました。それは戦時中、ときの政権の政治方針が子どもを洗脳することに教育が悪用されてしまったり、障害者などに“お国の役に立たないから”といってひどい仕打ちをした痛苦の経験を反省すると同時に、江戸時代以来の“貧しい人など、どんな条件の人にも教育を施すことが国の発展の基礎になる”という経験から学んだものでした。
一部のものだけが重点的に教養を施されるような教育は、極めて少数の集団が国を専制支配した時代の教育観と同じです。新しそうに見えてまったくもって古い教育観だと指摘したいと思うんです。
教育基本法「改正」の主論もそこにある
さて、教育基本法を変えたいという人たちの主張はたくさんありますが、これは共通しているという部分に「教育基本法の規定した“平等性”が日本の教育を悪くした」という主張があります。
教育基本法のいう教育の「平等」(貧しい家庭の子でも、五体満足でない子でも能力に応じた教育を施すことと私は理解しています)を曲解し、自分たちの目指す一部のエリートと大多数の物言わぬ国民をつくろうとする教育を「競争による社会の発展が必要だ」と偽る政治家や政党、財界。
これを知っても、教育基本法を変えろという人は少数だと私は思います。
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